「悪は存在しない」

「音・音楽、映像のマジック、悪とは何か」

監督・脚本:濵口竜介
音楽:石橋英子
企画:濵口竜介、石橋英子
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁

 【作品紹介】
2023年ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(審査員賞)受賞作品。
「ドライブ・マイ・カー」「偶然と想像」で全世界に評価を受けている
濵口竜介監督の最新作品。

【評論】

ファーストシーン。音楽が流れるなか、木々を下から見上げるようなカメラアングルで水平移動していく。親子が雪の上を歩くときの音、鳥の声、自然の音に満ちている。静かな静かな佇まいの町。薪を割る音、湧き水から飲料水をくむ川のせせらぎの音、ストーブの中で薪がはじける音、すべてが生活の音だ。この町で暮らす人達の生活様式が端的に語られる。

この映画で驚かされるのは、まるで静止画を見ているような完璧に計算されつくされた構図におさまり美しい絵画を見せつけられる映像だ。特に自然と人物の立ち位置が絶妙で登場人物の心の内側を映像が雄弁に語っている。まさに映像の説得力にあふれている。

この町にグランピング場の建設の説明会から物語が始まる。事業会社の従業員、高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)からの説明に現地の住民達は質問を浴びせ計画の脆弱性が露呈される。住民達の意見を持ち帰った二人は事業の中止を求めるが、会社の都合で事業決行の判断が下される。そして二人は町のことに詳しい安村(大美賀均)に会いに行く。その車中の二人の会話は住民側に理解を示している。

この静かな町に住民達が反対するグランピング場を建設することが「悪」なのか。物語の焦点は絞られてくる。しかし濵口監督は何も語らない。「悪」があるならば「善」があって成立する。「善」はグランピング場の建設中止か。「善」にはそれぞれの明確な意志があるから「善悪」の二元論は何も描出していない。ただこの町の事実を安村に語らせるだけだ。

濵口監督は奇妙な演出をほどこす。車が前に走るときカメラを車の後部に置き車が走ってきた来た道を映し出す。あまり見ないカメラアングルだ。そして冒頭で安村は「忘れっぽいですよ」と住民に言われる。このさりげないカメラアングルと台詞が重要なキーになっていた。

物語が進行すると見る者はどうしても時系列的にストーリーを追ってしまう。安村が二人の相手をしているとき、鹿狩りの銃声が轟き、すぐさま慌てて煙草をもみ消し車に乗る。娘の花(西川玲)を学校へ迎えに行くのを「忘れていた」のだ。花は行方不明になり住民達の捜索が始まる。捜索は花が来た道を追うのだ。まるで車の後方にカメラをおいたように。そして事件は起きる。

住民達が花を捜索していた時間は夜であった。しかし安村と高橋が花を見つけた時はまだ周りは明るかった。そして花のそばには手負いの鹿の親子。濵口監督の演出のすごさは見えるものとあえて見せない映像の使い分けだ。映像として描出されなければ、見る者は見えている映像を手掛かりに想像力を喚起するしかない。見る者に映画を完全に委ねる、いや強引に委ねられるから戸惑いながら想像し思考するしかない。見る者の想像力と思考を自由にする、作り手として見事な手腕だ。自然の音、音楽、完璧な構図、そして時空を超える映像のマジック、安村のこの神聖な土地によそ者を寄せ付けない強い意志と行為における、安村明確な意志の「善」、親子が自然と同化していく幽玄性の発露をへてファーストシーンへ戻り放浪する親子。ここにおいて「悪は存在せず」この映画は神話となった。

 

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