想像力をかきたてる映画2本

「PERFECT DAYS」

「単なる日常の繰り返し、そこには人生がつまっている」

この映画を見て正直つまらないと思う人もかなりいるでしょう。老年のトイレ清掃員の日常がドキュメンタリー的にたんたんと描かれて、セリフも少なく大きなアクションもない。結果、つまらないとなる。わかります。
ただ、この映画の映像(俳優の演技含め)と音、スクリーンから表現されるものに、観ている人が思考し想像していくと映画の楽しみは倍増しますよ。何故、そのシーンか、セリフなのか主人公の部屋なのか、あれこれ想像してください。
以下は私の映画考察です。ネタバレもあるのでネタバレが嫌な人はぜひ見てから読んでください。

【考 察】

トイレ清掃を仕事にしている老年の独り者平山(役所広司)の毎日がたんたんと描かれていく。たまにハプニングが起きるが、仕事の日、休日も同じ行動パターンで生活している。部屋にはテレビもなく古本屋で100円で買った若干の本と昔のテープとテープレコーダーのみだ。シンプルの極みのような生活を日々送っているが、裏返せば孤独な世界である。

平山は、何かを消し去るよに、時間を進めるかのごとく一生懸命働く。休憩時間に木々からこぼれる木漏れ日に感動しシャッターを切ったり、土から芽吹いた小さな草を大切に持ち帰る、自然の恩恵を受けることや日常の暮らしの中で自分にできることに歓びを感じている。彼は今の日常に満ち足りている。

平山の過去は一切描かれない。映像や台詞にならないとなぜか想像したくなる。ある日突然姪っ子(中野有紗)が「家出した」と言って平山と数日暮らす。平山は気を使いつつ姪っ子に特段なにも意見しない。ただ一言「人はそれぞれ別の世界を持ってる」という言葉を姪っ子に発する。。暗に姪っ子に「誰の世界でもない自分の世界を生きなさい」と優しく語り何かに不満を持っていた姪っ子は「伯父さんありがとう」と返す。この言葉こそが平山の過去と現在の一面を表している。

狭い部屋に一人暮らす平山の世界は閉ざされていない。清掃員の後輩、銭湯、食事をするいつもの店の店長、写真屋のおじさん、古本屋のおばさん、飲み屋のママ、皆平山の人間性を理解している。この場や人には平山に対する優しさが漂っている。人は別な世界を持っているが人と人はどこかでつながっているという作り手のメッセージがにじみでている。

終盤に一つのドラマが展開される。男二人が河原で酒を飲みながらお互い思い通りにいかない人生の会話。そして二人が興じる影ふみ遊びが、老年を迎えた二人にふさわしく実体ではなく影をふむ遊びにうれしそうに興じる二人の姿に人生の悲哀を感じる。

ラストシーン。車を運転してる平山の表情が、泣き、笑い、様々な感情を吐露するかのようにどんどん変化していく。この表情こそ平山の現在、過去、これまでの喜怒哀楽の入り混じった人生すべて物語っている。平山の世代であれば大なり小なりこのような表情をして生きてきたのだと感じる。そして映画を観た後に、還暦を迎えた身としては、過去をふと振り返ったり重ね合わせたりして、そういう時もあったなと感慨にふける。歳をとる、重ねるのも悪くないし無意味でもない。なぜならこの映画のメッセージを受け取ることができたからだ。静かな静かな映画なのに強烈なインパクトを与え豊潤な余韻を残す、まさに2023年NO1の映画と言っても過言ではない。

「熱のあとに」

 

「作り手が見る者に思考を促す挑戦的な映画」

 主演の橋本愛がほぼ全編ブスっとした表情のままで映画を受身的に見ていると何が何だかわからず「それでどうなるんだよ」という怒りの声が聞こえてきそうだ。そう、作り手はわかる映画をあえて作っていない。見る者に「思考せよ、想像せよ」と挑戦状を叩きつけている。
以下は、私の思考と想像を駆使した考察です。読んでみてください。

【考 察】

「本当の愛」など誰にもわからない。「本当の愛」とは、「一緒にいると楽しい、おもしろい、落ち着く」という各人のイメージでしかない。だから山本監督は、定義づけしてこれが「本当の愛」だと映像化しない。沙苗(橋本愛)が精神科医に語る言葉のみ描出する。イメージであるから言葉でしか表せないのだ。

登場人物達も「本当の愛」とは何か迷いだす。まるで山本監督は、映画を撮りながらスタッフ、キャスト、そして見る者も巻き込んで「本当の愛」とは何かと問うているかのようだ。見る者はたまったものではない。二時間強、橋本愛の平板な無表情を見せられて、受動的に映画を理解できず、能動的に思考を強制されるのだ。しかし、映画を見る行為と同時進行に思考する行為は純粋に楽しかった。それは本来映画が持つ最大の映画体験だからだ。

沙苗が小松と結婚した新居の隣によしこが現れる。そしてよしこは沙苗が「本当の愛」と信じ、果てに刺した隼人の妻だと言う。沙苗は激しく動揺する。しかしなぜこんなにも動揺するのか、隼人が行方不明というだけしか説明はない。

よしこの東京の自宅に行方不明の隼人が帰っていた。そして隼人と別れたと沙苗と小松に告げる。しかしなぜ、よしこは別れたのか、そしてある朝一人でボートに乗る、その説明もない。

沙苗が隼人に会いに東京へ行く。追いかけるように小松と同僚の美紀は、ホテルで心中を図る。なぜ、この二人が心中するのか、結局死にきれなかった二人には予想もできないことを起こす。ここでも何の説明はない。

これら今書いた事象には、映画的説明がほとんどない。作り手が「本当の愛」を模索しているから説明できないとう映画的手法で描出し見る者の思考を促しているからだ。

小松が退院する。沙苗が車で迎えに来る。別れを切り出す小松、沙苗は、車を止めて小松に60秒見つめようと言う。このシーンには伏線がある。二人が見つめ合うシーンを見てどこか救われた思いになった。二時間強の思考体験は、単なる受動を断つ野心的映画体験であった。

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