僕が感じて考えたこと、おやじの雑感

                        「自己肯定と恥の狭間で」
 足が長くすらっとした若い女性が、ミニスカートをはいて闊歩している姿を見て恥ずかしくないのかなと思うのは61歳の私だ。若い女性からしたら私の視線は他人の視線だ。その女性がなぜミニスカートをはくのか、その思いは彼女にしかわからないよね。
 女性にも恥ずかしさはあると思う。日本人は特に人にどのように見られているか意識するし、人と違ったことをするとなにかと風当たりが強くなる、日本人の気質としてね。
 しかし何より彼女はこのミニスカートをはきたくてまとっていると思うんだ。他人の視線も気にししつ、でも、私に似合っているからはきたい、私自身が可愛いと思うからはきたい、ただその思いだけでね。彼女の思いは誰にも否定できないよね。むしろ彼女が自己主張し自己肯定してる姿にカッコよさ感じるくらいだ。自己を堂々と主張する、その心意気にね。
 ファッションは難しい。TPOもある。これを着たいけど・・・あわないよねといって諦める。そう他人、社会の視線があるからね。しかしTPOがあっても許容範囲であればどのようなものを着てもいいはずだよね。
 しかしそうしない人は、明らかに他人の視線を気にして自己主張をがまんしている。そこには自己肯定感なんてないよね。人と違って見られたくないから。そのような人はTPOがまったく関係なく自由なファッションを楽しめるときどのようなものを着るのだろう。多分自分が気にいっている、自分に似合う、自分が可愛いと思うものを着るだろう。
 ただ、こちらが恥ずかしくなるくらいのミニスカートをはく勇気はあるだろうか。確かに体型は千差万別であるからいちようにはいえないね。仮に彼女と同じように足が長くすらっとした女性であったら恥ずかしいくらいのミニスカートをはくだろうか。
 比較できないよね。人はそれぞれ違うのだから。自分が似合う、可愛いと思うものを着るだろう。自己肯定感から。自分が好きなものを着る、なにも人の視線なんて気にしなくていいんだ。それぞれぞ自己主張して思い通りのものを着ればいいだけだよ。
 自己肯定は人を自由にする。着るものだけではなく生き方も自分が肯定できればいいと思うよ。人がどのように思うとも生きているのは自分なんだから。もっと自由でいいんじゃないかな。型にはまると社会のなかで生きやすいのは事実だと思うよ。でもそこには自己肯定感はまったくないし、なにか嫌なことがあったら人のせいにしたり、社会のせいにして逃げるだけだよ。型を破るところに自己主張があって、カッコイイ生き方をする自分を肯定できたとき、人は一番輝いていると思うよ。だって自分で自分の責任を背負って生きているからね。このことは男女、LGBT含めてみんなにあてはまるんだ。恥ずかしさより自己を肯定する生き方は自然でカッコイイよ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です